遊びは終わりだ

2009年3月17日

ツケはいつかは支払われなければならない。
清算の日はいつ何時来るかは分からない。でもその日は確実に来る。
要はそれを「ツケだ」という認識があるかだ。
例えば人間が生きるということはいろんな「迷惑」や「わがまま」を伴う。
そういったことをちゃんと「ツケだ」と自覚できているか、ということ。
もちろんこれは単なる借金の話をしてるわけじゃないし、「自分はちゃんと経済的に自立してるから、誰にツケがあるわけでもないし、迷惑もかけていないからいいだろう。」などという低レベルな話でもない。

例えばオレはドイツにいたけど、まずそのことがツケであるということに本能的には分かってた。
でも自分はドイツ滞在が心地よく、このままここにいることができればと考えていた。
この場合代償は「日本」で、得るものは「ドイツ」だった。
ちなみに「何でそこで日本が代償になるんだ?」などという方は、この文章は読んでも無駄である。
あとオレは写真を中心に活動してたけど、自分のことを「人間である前に写真家だ。」みたいに「人間である前に○○だ。」なんて思ってる方にも、この文章は時間の無駄でしかない。
なぜならこれを書いているオレは「写真家である前に人間でありたい」と思うから。

例えば外国にいながら自分の生活はとりあえずうまくいくこともあるかもしれない。
でもそれはあくまで「自分の」生活だけだ。
じゃあ結婚して子供ができて、子供が大きくなって、自分の親もいつか死んでしまうことを想定しよう。
そんな時外国にいると親の世話もできず、死に目にも会えず、子供は子供で自分がどこの国の人間なのか悩み出す。
でもそれは全部「仕方のないこと」?自分が幸せなら、人も幸せ?
オレも昔はそう思ってた。「自分がまず幸せじゃない人が、なんで人を幸せにできるだろうか」と。
確かにこれは原理的には合ってる。正しい。
でも実際には自分がどんなに幸せでなくても、人の幸せのことを考えないといけない時がある。
己の幸福を追求することは決して間違ってない。ただそれ以外の部分での「ツケ」は最小限にするべきだと思う。
なぜかと言えば、自分のツケを払うのがオレ自身だったらいいけど、それがもし自分の親だったり、子供だったりしたらこれほどやりきれないことはないからだ。
人間臭く、青臭く、面倒臭く、泥臭いことで、若い(と思ってる)うちは耳を塞ぎたくなるだろうけど、こういったことを考えないといけない日は誰にでも必ずやってくる。

オレが帰国した理由も、そういう背景が強い。
もしこのことに気付いていながら外国にいて将来は帰国したいなんて思ってる方は、できるだけすぐに帰国した方が賢明だろう。
気付いているというだけでそれは価値がある。でもオッサンやオバハンになって帰国して何ができるんだろう。
心身ともに老い、帰国そのものが大変な負荷になり、長年の留守で頼れる友人も少なく、久しぶりの日本の生活に慣れるのにも疲労し、いい年してるから仕事の採用もない。
分かってるんなら、私情はさておきできるだけ早くケツをまくるべきだろう。
「日本に帰ってもろくなことがない」なんて言い訳の常套句だけど、オレには「ろくなこと」より大事なことがあるような気がして仕方がない。
実際オレは帰国してろくなことはないし、ろくな生活もしてない。でも帰国したことは全くと言ってもいいほど後悔してない。
ろくなことがあるかどうかなんてホントにどうでもいい。

もしあのままろくなことを期待しながらひたすら自分の幸福を追求するのなら、オレは日本を完全に捨てなければいけなかった。
まあ捨てられるわけもないけど(笑)。
この「捨てられるわけもない」っていうところがまたタチが悪い。
自分が「移民」だって言われると抵抗があるけど、「在住」とか「とりあえず住んでいる」と言われるのは構わないという人が多いのはそこなんだろう。
「ドイツ在住」とか、「ドイツに留学」なんてかっこいいけど、「移民」なんて言ったらなんだか苦しそうだ。
日本人はそういう変なところでキレイでかっこいいものを好み、泥臭くてかっこわるいものを嫌う。
でも実際、海外経験は「留学」って言えるくらいの短期間が一番いいのかもしれないと、7年も住んでみて思った(爆)。

お金の話になるけど、最近は政治の世界でも国債とか地方債、財政改革の答弁なんかでよく「この借金はやむを得ないと言われますが、これを誰が払うんですか?私たちの子供ですか?」なんて聞く。
勝手に借金してもいいけど、その尻拭いをちゃんと自分でやれよってこと。
「そんなの当たり前じゃん」なんて言ってる人に限って分かってないことが多いんで、気をつけましょう。
オレも気をつけていきたいと思います。

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